目的地なんていらなかった―移動そのものを愛した僕の話
2025-05-07
1. 日本のタクシーの音に震えた子ども時代
僕が初めて "交通" に心を奪われたのは、小学生の頃だった。きっかけは、街中を走るタクシーの音だ。
特に印象に残っているのが、トヨタクラウンの3Y-PE型エンジンの音だった。アイドリング時の規則正しく響く低音、発進時に唸るようなそのエンジン音は、まるで鼓動のように胸に響いた。
「この音は何だ?なぜこんなに落ち着くんだ?」
そう思った僕は、車種を調べ、当時の自分には難解な言葉の意味を調べ始めた。そこには誰にも強いられていない、純粋な好奇心と魅了があった。
誰かにとっては "ただの道具" に過ぎないものが、僕には生きているように見えた。音がするだけで、心が動いた。それが僕の原点だった。
2. “目的地”より“移動”が好きだった子ども時代
思い返せば、幼い頃から僕は、道路の形や電車の通過、バスの折返所、人の流れなど "動きのあるもの" に自然と目が行っていた。
交差点の渋滞を見ながら「なぜここだけ詰まるんだろう?」と疑問を持ったり、バスの時刻表を暗記したり、地図帳や住宅地図を読むより、実際に自転車で走ることの方に惹かれていた。
図鑑や鉄道模型よりも "現実の都市" を見ていた。そこには、作られた正解ではなく、常に変わり続ける "生きた構造" があったから。
つまり、僕にとって交通は単なる機能ではなく、観察対象であり、なにより感情を動かす存在だった。
3. 交通手段=人生の選択肢だった思春期・青年期
思春期に入ると、免許がない僕は自転車と鉄道を駆使してどこまでも行った。地元の範囲にとどまらず、地図を片手に都市圏を縦横無尽に "探索" した。
目的地が欲しいわけではなかった。むしろ "移動している状態" に意味があった。
ある時気づいた。
多くの人は「目的地にたどり着くこと」に意味を見出す。 でも僕は「移動していること自体」が目的だった。
乗換案内アプリがまだ普及していなかった時代、僕は紙の時刻表を手に、最もロスの少ない乗り継ぎルートを手計算し、最速・最短を遊びのように試した。
社会に出て以降も、「どこへ行くか」より「どうやって行くか」を優先して考える自分がいた。交通手段の選択は、そのまま自分の行動原理や美意識そのものだった。
4. 運転そのものが、自分の居場所になった
自動車免許を取得してからは、僕の "行動の自由度" は劇的に変化した。
ただ、車を使う目的は誰かを迎えに行くでも、荷物を運ぶでもない。運転そのものが目的だった。
ハンドルを握ると、頭の中の雑念が少しずつ消えていった。走る、止まる、曲がる、その一連の動作の中に、自分の意識を乗せることができた。車内という小さな空間が、まるで瞑想室のようになった。
「止まっていると不安で、動いていないと焦る」。そんな感覚がある。
世の中には歩くことで思考を整理する人もいるけど、僕にとってはそれが "運転" だったのだ。
5. これから語っていくこと――交通が教えてくれたこと
このサイト「nakayamaken.com」は、僕が愛してきた「交通」について、もっと自由に、もっと個人的に語る場として作った。
タクシーという仕事を通じて感じる都市構造の変化、昭和と令和の交通文化のズレ、車社会の限界、そして一人の人間として "動き続ける" ことで得た気づき。
今後このサイトでは、そういった話をゆっくり丁寧に書いていくつもりだ。
「交通」は、ただのインフラではない。 それは、人と社会と時間を繋ぐ、感情の交差点だ。
読んだ誰かが「ああ、わかる」と思ってくれるなら、それだけでこの発信には意味がある。
目的地なんて、なくていい。 僕にとって交通とは、そこに至るまでの「動き」そのものなのだから。